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東京地方裁判所 昭和53年(ワ)7856号 判決

原告 長沼ひろみ

右訴訟代理人弁護士 湯澤眞澄

同 大川智大

同 山口治夫

同 藤井輝久

被告 小林実

右訴訟代理人弁護士 落合長治

同 大西義雄

右訴訟復代理人弁護士 前川渡

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は原告に対し、金一八五一万五二三五円及び内金一六二〇万五二三五円に対する昭和五三年二月一五日から、内金二三一万円に対する本裁判確定の日の翌日から各支払済みまで、年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨。

第二当事者の主張

一  請求原因

1  当事者

被告は肩書住居地において医院(通称小林医院という)を経営する医師であり、原告は昭和五三年二月右医院に入院して同月一一日長男誠(以下誠という)を出産したものである。

2  本件事故の発生

(一) 誠は出生当時の体重が四一三〇グラムの極めて健康な男児であったが、出生後四日目の同月一四日小林医院別館において突然死亡するに至った。

(二) 誠が死亡した状況は次のとおりである。

原告は誠を出生後小林医院の本館に入院中であり、誠は同医院別館の新生児室に入れられていたが、被告は誠をろくに回診せず放置し、また同医院には看護婦の資格を有する者がおらず、被告の妻が無資格で授乳等の最低限の看護をしていたものである。そして誠は施錠された新生児室に一人で寝かされていたが、同月一二日原告の親類の者が誠を見舞ったときは室温が摂氏五度しかなく、被告の妻に告げると「暖房設備がこわれている。」等と弁解していた。

誠は、死亡当日の同月一四日午後六時ころの授乳の際、ミルクの飲み方が悪かったが、被告はこのことを知りながら何ら適切な処置をとらなかった。

このような状態の中で誠は同日死亡するに至ったが、原告らが誠の異常を知ったのは同日午後一〇時二八分ころ被告の妻が突然原告の病室に来て「子供の具合が悪くなったので見に来て欲しい。」旨告げたからであり、原告に付添っていたその実母大谷タカが新生児室に駆けつけたところ誠は既に冷たくなっていたもので、誠の死亡時刻に関する被告の説明もあいまいであった。

3  本件事故の原因

(一) 誠は呼吸障害により死亡したのであるが、死亡当日の午後五時ころまでは何らの異常も認められない全く健康な新生児であったから、その呼吸障害の原因としては、気道にミルクなどの嘔吐物その他の異物が詰まったか、あるいは枕などの寝具により呼吸器が塞がれたなどのいわゆる外的要因によって生じたとしか考えられない。

(二) 仮に誠の呼吸障害が内的要因によるものとしても、被告が誠に対して必要な治療行為及び看護を尽さなかったことがその死因を誘発したものである。

4  被告の責任

(一) 債務不履行

原告は被告との間で、原告の入院に際し、被告において出産の直前、直後の危険が多い時期における妊産婦及び新生児の生命身体の安全を保持するために開業医として要求される臨床医学上の知識技術を駆使して原告及び新生児の看護、治療を行ない、もし異常が生じた場合には速やかにその原因を把握して適切な治療を施し、もって母子ともに健全な状態にして退院させるという事務処理を目的とする準委任契約(診療契約)を締結した。

しかるところ誠は極めて健康な男児として生まれながら急死するに至ったもので、この結果から見て被告の治療行為は外形的に不完全なものであったと認められ、前記契約上の債務の不完全履行と推認されるのであるから、被告において帰責事由の不存在を主張立証しない限り損害賠償責任を免れないというべきである。なお診療契約における債務は医療行為という極めて高度の専門的、技術的業務を内容とするものであるうえ、本件では誠は原告ら家族と隔離された新生児室で被告の看護、治療を受けていたもので密室性も加わっており、原告は被告の履行状況を全く知ることができないのであり、また、原告には誠の死因を探る手段が全くないのであるから、衡平の原則に照らし、被告において帰責事由の不存在を主張立証しない限り責任を免れないと解するのが相当である。

(二) 不法行為

(1) 誠の死亡は前記3(一)のとおり気道に異物が詰まったか寝具により呼吸器が塞がれたなどの外的要因によって生じたものであるが、このような要因は、誠の看護に従事していた被告の妻が誠に対する授乳その他の看護に当たり、新生児の看護につき一般の医療水準に照らし要求される注意義務を怠ったためであるといわざるを得ない。そしてこのことは、被告において新生児である誠の看護につき資格ある看護婦をしてあたらせるべき注意義務を怠たり、看護婦の資格をもたず専門的な教育訓練も受けていない被告の妻一人に任せていたことの結果であり、この点において被告に過失がある。

また被告の妻は被告の手足として働いていたのであるから、被告の医療行為の履行補助者であり、被告の妻の前記の過失は被告自身の過失にほかならない。

よって被告は本件事故につき民法七〇九条により不法行為責任を負う。

(2) 被告はその医療行為につきその妻を使用していたところ、本件事故は被用者たる妻がその業務遂行上の過失により惹起したものであるから、本件事故につき被告は民法七一五条により使用者として損害賠償責任を負う。

(3) 仮に誠の呼吸障害の発症が不可避であったとしても、被告は医師として新生児を母親から隔離して預る場合に、一日数回の交替が可能なだけの看護人の数を確保し、かつ常時新生児の状態を監視して些細な異常にも迅速に対応措置をとれる体制を整えておくべき義務を負っているところ、本件において、もしこのような体制が整えられていたならば誠の異常を早期に発見し適切な措置を施して生命を救うことができたものである。

しかるに、現実には右のような看護体制はとられず前記2(二)のとおりの劣悪な看護体制にあって誠の異常の発見が遅れ、誠を死亡させたから被告は過失を免れず本件事故につき民法七〇九条により不法行為責任を負う。

5  損害

(一) 誠の逸失利益の相続分 金一〇〇五万五二三五円

誠は死亡当時極めて健康な男児であったので生存していれば満一八歳から満六七歳までの四九年間は就労可能であり、かつ右期間中、毎年金二八一万八一〇〇円(昭和五一年度賃金センサス第一巻第一表産業計・企業規模計・男子学歴計平均給与年額金二五五万六一〇〇円に昭和五二、五三年度の各五パーセントのベースアップ分を加算)の収入を得られたものと推定されるから、右期間を通じて控除すべき生活費を五割とし、中間利息の控除は新ホフマン係数によることとし、また一八歳に達するまでの間一か月につき金二万円の割合で養育費を控除して逸失利益を算定すれば左記計算式のとおり金二〇一一万四七一円となるところ、原告は誠の母としてその二分の一相当の金一〇〇五万五二三五円を相続により取得した。

(計算式)

2,818,100×0.5×16.419=23,135,191

20,000×12×12.603=3,024,720

23,135,191-3,024,720=20,110,471

(二) 誠の慰藉料の相続分 金一〇〇万円

誠が生後四日目に死亡するに至ったことの精神的苦痛に対する慰藉料は金二〇〇万円が相当であるところ、原告は誠の母としてその二分の一相当の金一〇〇万円を相続により取得した。

(三) 葬儀費用 金一五万円

誠の葬儀に要した費用は金三〇万円を下らず、原告はその二分の一相当の金一五万円の負担を余儀なくされた。

(四) 原告自身の慰藉料 金五〇〇万円

誠は原告にとって二人目の子であり、かつ長男であった。加えて、原告はこれまで二人の子をいわゆる帝王切開によって出産したため、もはや子供を産めない体である。よって誠はかけがえのない子供であり、誠の死亡による原告の精神的苦痛は計り知れないものがありこれに対する慰藉料額は金五〇〇万円を下らない。

(五) 弁護士費用 金二三一万円

原告は、本件事故につき、被告との間で円満に解決せんものと考え、昭和五三年五月二五日発信にかかる内容証明郵便をもって損害賠償の請求をしたが、被告がこれに応じなかったので止むを得ず本訴の提起・追行を弁護士である原告訴訟代理人らに委任し、同代理人らに対し、日本弁護士連合会報酬等基準により、前記損害額合計金一六二〇万五二三五円についての手数料及び謝金として各金一一五万五〇〇〇円(合計金二三一万円)を支払わねばならないこととなった。

6  よって、原告は被告に対し、主位的には債務不履行による、予備的には不法行為による損害賠償として金一八五一万五二三五円及び内金一六二〇万五二三五円に対しては本件事故の日の翌日である昭和五三年二月一五日から、内金二三一万円に対しては本裁判確定の日の翌日から各支払済みまで、民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1の事実は認める。

2(一)  同2(一)の事実中誠が極めて健康であったことは否認し、その余は認める。

(二) 同2(二)の事実は否認する。

誠が死亡するに至った経緯及び死亡時の状況等は次のとおりである。

(1) 誠は昭和五三年二月一一日午後三時二五分に帝王切開手術により生まれたが、出産時において元気よく啼泣し、外見的には健康な新生児でアプガールは九ないし一〇であった。

(2) 誠は分娩後小林医院内の新生児室に置かれていたが、この部屋の室温はクリーンヒーターの使用によって冬期は摂氏一八度位に保たれており、同月一二日午前六時ころ、被告の妻が新生児室を見廻ったとき、このヒーターは作動していた。その後同日午前一〇時ころ右ヒーターが故障しており室温が摂氏五度位になっていることを発見したので、直ちに被告は誠を隣の暖房のきいた未熟児室に移した。なお誠は、新生児室においては毛布一枚でくるまれてベッドに置かれ、その両側に湯タンポ各一個がいれられており、その上に毛布一枚、薄い掛布団一枚、厚い掛布団一枚でおおわれていた。

(3) 誠の二月一四日午後六時までの授乳状況及び診察状況について。

(ア) 誠は同月一二日午後四時から授乳を受けたがその状況は左記の通りである。なお授乳を担当した者は被告の妻である。

同月一二日

午後 四時

七時

一〇時

一五CC

同月一三日

午前 二時

五時

八時

一一時

午後 二時

五時

八時

一一時

一五CC

二〇CC

二月一四日

午前 二時

六時

八時半

〇時

午後 三時

六時

二〇CC

三〇CC

二五CC

(イ) 被告は誠に対して同月一一日午後七時ころ及び同月一二日ないし一四日のそれぞれ午後二時ころに診察を行ったが、右四日とも誠の胸部、心臓、腹部には異常な処見がみられなかった。また、被告は、右以外に一日一回ないし二回の割合で誠の部屋を見廻りに行き誠を観察している。

(ウ) なお誠は、同月一三日は午前八時半から午前一一時まで、翌一四日は午前九時から午前一一時まで原告のもとにおかれていた。

(4) 誠の死亡時の状況は次のとおりである。

被告は、同月一四日午後二時ころ誠を診察し、同日午後五時ころ見廻りに行ったが、別に異常は認められず、午後六時ころ被告の妻が授乳した際も異常は認められなかった。

同日午後九時一五分ころ、被告の妻が誠に対して授乳しに行った際、誠が呼吸困難に陥っているのを発見したので直ちにその旨を被告に連絡した。

被告は、直ちに誠を診察した結果、誠の呼吸困難は著しくチアノーゼを呈しており、極めて危険な状態であった。ただ嘔吐の気配はなかった。

被告は次の順序で誠に対して治療を行ったが、効を奏せず間もなく死亡した。

(ア) 強心剤(ビタカンハー)〇・五CC及び呼吸促進剤(テラプチク)一CCの注射

(イ) 吸引器にて気道の吸引及び酸素吸入器にて酸素吸入

(ウ) さらに人工呼吸、心臓マッサージ及び蘇生器による酸素の供給

(5) なお被告の医院には看護婦の資格を有する者はおらず、医療行為は被告のみが行ない、被告の妻が被告の指示に基づき看護補助及び新生児の授乳、沐浴、おむつの取替え等のみを担当していた。

3  同3(一)、(二)の各事実はいずれも否認する。

誠の死亡は周産期死亡(妊娠二九週以後の死産及び生後七日までの死亡)であるが、周産期死亡の主たる原因としては、肺硝子様膜症、肺炎(先天性と後天性とに分類される)、肺出血、気道にミルクその他の異物が入った場合、肺拡張不全(但し病理解剖学的病名である)のほか、原因不明の乳児急死症候群(Sudden Infane Death Syndrome略してSIDSという)があり、本件で肺硝子様膜症、肺炎、肺出血、肺拡張不全の症状は全くないし、ミルクの誤吸引による窒息の可能性についても、相当大量の吸引でなければ窒息死しないし、大量吸引であれば顔面やその周囲に吐物が付着するはずであるが、本件ではその気配はなかったから右可能性を否定できないので、誠の死因は乳児急死症候群である。

乳児急死症候群の原因は未だ解明されておらず定説はなく、またこの疾病の最大の特長は、乳幼児は死亡直前まで一見健康であり、その状態からは近い将来に死という重大事態が生来することを示す徴候が全然なかったのに睡眠中のごく僅かの時間内に容態が急変して短時間のうちに死の転帰をたどるというところにある。

4(一)  同4(一)の事実は否認する。

(二)(1) 同4(二)(1)の事実は否認する。

被告は医師としての専門的判断に基づき、その手足として被告の妻を使用していたのであるから、被告の妻が看護婦資格を持たないことのみをとらえ被告に過失があるということはできない。

(2) 同4(二)(2)の事実は否認する。

(3) 同4(二)(3)の事実は否認する。

近代的総合病院でさえ、新生児一人に対して常時看護婦が監視する体制をとっておらず、まして一般開業医においてそのような体制をとることは不可能であるし、また誠の死亡前に常時継続して監視することを必要とするような特段の事情もなかった。

さらに乳児急死症候群の発症機序からして原告主張の如き体制をとっていても誠の命を必ず救えたとはいえない。

5  同5の事実は否認する。

三  抗弁

(和解契約)

1 被告は、昭和五三年二月一五日、原告の夫で誠の実父である訴外長沼誠治(以下誠治という)との間で誠の死亡につき金五〇〇万円の和解金を支払うことによって一切解決する旨の和解契約を締結し、誠治に対し、同月一五日金三〇〇万円、同年三月三一日金二〇〇万円を各支払った。

2 誠治は、右和解契約を締結するに際し、原告のためにすることを示した。

3(一) 原告は誠治に対し右和解契約を締結するについて代理権を与えた。

(二) 仮りに、原告より誠治に対し具体的な授権行為が存在しなかったとしても、原告と誠治は同居中の夫婦であり、両者の間の子供である誠の死亡事故についての和解契約であること等の諸事情により誠治に代理権が存在した(黙示の授権、代理権授与の推定あるいは事実上の授権として構成される)というべきである。

(三) また誠治は民法七六一条により日常の家事に関し妻である原告を代理する権限を有したところ、本件和解契約は右権限を超越したものであるとしても、前記(二)の諸事情により、被告において誠治に右契約につき原告を代理する権限があると信ずべき正当な理由が存した。

四  抗弁に対する認否

1  抗弁1の事実は認める。

2  同2、3の各事実は否認する。

第三証拠《省略》

理由

一  当事者

請求原因1の事実は当事者間に争いがない。

二  本件事故の発生

1  請求原因2(一)の事実のうち誠が極めて健康であったとの点を除くその余は当事者間に争いがない。

2  《証拠省略》によれば以下の事実が認められる。

(一)  誠は昭和五三年二月一一日午後三時二五分に帝王切開手術により出産し、出生時の体重は四一三〇グラム、身長五一・四センチメートルで元気よく泣き、アプガール(出生六〇秒後の外見、心拍数、呼吸等五項目を観察評価し、一〇点を最良とする)は九ないし一〇点であった。

誠は出生後沐浴等を終えたのち、小林医院内の新生児室に寝かされた。新生児室はプロパンガスを燃料とするクリーンヒーターの使用により室温が摂氏一八度位に保たれるようになっていた。

一方原告は誠を出産後小林医院内の病室に入院し、本件事故後の同月二三日退院した。

(二)  小林医院に常勤する医師は被告一人であり、また看護婦の資格を有する者はおらず、新生児に対する看護のうち、授乳、沐浴、おむつの取替え、湯たんぽの交換等は被告の妻小林汎子が担当していた。また病室の掃除や入院患者の衣類の洗濯等は手伝いの者が行なっていた。

(三)  しかるところ、新生児室に置かれた誠は、湯たんぽを両脇に二個入れたベッドに寝かされ、ベビー毛布や掛蒲団を掛けられていたが、同月一二日午前一〇時ころ原告の夫誠治らが誠を見に新生児室に来合わせたとき、クリーンヒーターが作動しておらず室温が摂氏五度に下がっていることが判明したので、被告は隣接の未熟児室のクリーンヒーターを作動させたうえ誠を同室に移したが、誠の様子に異常はみられなかった。なお新生児室のクリーンヒーターは、同日午前六時ころに被告の妻が湯たんぽの交換のため同室に入った際は正常に作動していた。

そして、本件事故当時まで、誠は同月一三日、一四日の各午前中に二時間位ずつ原告のもとに置かれたほかは主に未熟児室に置かれていた。

(四)  誠に対しては、出生の翌日の同月一二日午後四時から被告の妻の担当により授乳(人工乳)が始まったが、その状況は、同日午後四時、同七時、同一〇時、同月一三日午前二時に各一五CC、同日午前五時から同月一四日午前二時まで三時間毎に各二〇CC、同日午前六時、同八時半、正午、午後三時に各三〇CC、同日午後六時に二五CCの授乳がなされた。なお同日午後六時に被告の妻が授乳しようとした際、誠は「うっくん、うっくん」という鼻を鳴らすような声を出していたが、授乳が終るとその声は止んだ。また右授乳時に誠は、三〇CCのミルクを与えられたのに二五CCしか飲まなかったが、被告の妻はかねて被告から指示されたとおり無理強いせず授乳を終えた。そして被告の妻は、右授乳の前後にその準備や後片付け、おむつの取替え等のため約三〇分位誠の近辺に居て、その様子を見る機会があったが、誠はすやすや眠っていて異常は認められなかった。

(五)  また被告は、誠に対し同月一一日の午後七時ころと、同月一二日から一四日までの毎日午後二時ころに診察を行なったが、異常な処見は認められなかった。なお被告は右診察時以外にも、一日に一、二回誠の部屋を見廻り、その様子を観察したが異常を認めたことはなかった。

(六)  しかして同月一四日午後九時一五分ころ被告の妻が授乳のため未熟児室へ行き、誠の様子を見たところ、顔面が真青で唇は紫色になり鼻をひくひくさせて苦しそうにし、著しい呼吸困難の状態に陥っていた。そこで被告の妻は直ちに被告に連絡をとった。

被告は直ちに誠のもとに赴いたところ、誠の顔面にチアノーゼが認められ、呼吸困難が著しく、極めて危険な状態となっていた。但し嘔吐の気配はなかった。そこで被告は、まず気管等に異物が詰まっている可能性を考えて気道吸引を行なったうえ、酸素吸入を開始し、また強心剤及び呼吸促進剤を投与(注射)し、人工呼吸、心臓マッサージの措置をとり、さらに蘇生器をかけたが午後九時三〇分ころ呼吸停止、心臓停止の状態となり、死亡するに至った。被告はその後も約二〇分間誠に蘇生器をかけていた。なお被告が誠に対し行なった気道吸引の結果、気管等に異物が詰まっていた形跡は認めなかった。

(七)  被告は同日午後一〇時過ぎころ原告に付添っていた実母に誠の死亡を告げ、さらに午後一一時ころ誠の実父(原告の夫)の誠治に電話で連絡し、事情を説明した。

そして翌一五日誠治と被告との間で示談が成立し、これにより被告は本件事故につき一切が解決したものと考え、また誠の遺体を誠治において引取ったため、誠の遺体の解剖はなされなかった。

以上の事実が認められ、右認定を左右するに足る証拠はない。

三  本件事故の原因について

1  原告は誠の死因につき、死亡前数時間前に何ら異常のなかった誠が突然呼吸障害を来たして死亡したものであるから異物が気道に詰まったか、寝具により、呼吸器が塞がれたなどの外的要因によるとしか考えられない旨主張する。

しかしながら、誠の気道に嘔吐物などの異物が詰まったり寝具が顔に被さって窒息死したことはいずれもこれを認めるに足る証拠はないし、他に誠を窒息死させるような外的要因の存在は本件証拠上見当たらない。よって原告の右主張は採用できない。

2  ところで《証拠省略》を総合すると以下の事実が認められる。

(一)  乳幼児について、一見健康な状態であったのに突然死亡し、しかも解剖検査をしても死因を解明できないという症例がしばしば経験され、医学上問題とされてきており、この問題に関し昭和三九年及び昭和四四年にシアトルで開催された国際会議で右症例を乳幼児突然死症候群(SIDS)と呼ぶことが決められ、これが真性の疾患であることが確認され、その定義を「乳児又は幼児に発生した突然死で、病歴上予期することができず、死後の十分な検索によっても適当な原因が証明されないものをいう。」とすることが決められた。そして昭和五一年、世界保健機関(WHO)の総会で乳幼児突然死症候群は正式に死因分類項目として採択された。

我国では昭和五六年に厚生省心身障害研究乳幼児突然死研究班が組織され、この研究班において乳幼児突然死症候群の定義を、広義には「それまでの健康状態及び既往歴からその死亡が予測できなかった乳幼児に突然の死をもたらした症候群」とし、狭義には「それまでの健康状態及び既往歴からは全く予測できず、しかも、剖検によってもその原因が不詳である乳幼児に突然の死をもたらした症候群」とすることを提唱している。

(二)  このようにして現在では、乳幼児に突然死をもたらす疾患としての乳幼児突然死症候群の存在が、医学上の知見として定着しているが、その原因については諸説が唱えられているが未だ解明されておらず発生機序も明らかでない。そのため予防法等も不明である。

なお一般的特長としては、多くは睡眠中に突然呼吸障害を来たして死亡に至り、また生後一年未満(特に二ないし六か月位)に多く、男児に多いなどが指摘されている。

(三)  誠は出生後四日目にして死亡したものであるので周産期死亡に該当するところ、周産期の新生児を呼吸障害により死亡させる疾患として従来知られた主なものとして、特発性呼吸障害症(肺硝子様膜症)、肺炎、肺出血等があるが、出生後四日目に、それまで異常が認められなかったのに突然死した誠の臨床経過等に照らして、それらの疾患に該当する蓋然性は乏しい。

(四)  しかるところ鑑定人渡辺富雄(昭和大学医学部教授)はかねて乳幼児突然死症候群について専門的に研究しているが、本件の訴訟記録を資料として誠の死因につき鑑定をなし、その死因は厚生省の前記研究班の定義による広義の乳幼児突然死症候群であると判定している。

以上の事実が認められ、右認定を左右するに足る証拠はない。

以上に認定の諸事実や、前認定の本件事故発生に至る状況等を総合判断すると、誠の死因は鑑定人渡辺富雄の鑑定のとおり乳幼児突然死症候群であると認めるのが相当である。

3  原告は、被告が誠に対し必要な治療行為や看護を尽さなかったことがその死因を誘発した旨主張するが、前記認定のとおり誠の死因である乳幼児突然死症候群の原因及び発生機序は未解明であり、本件においても被告の誠に対する治療行為ないし看護の態様が右疾患の発症と関連性を有したことはこれを認めるに足る証拠はない。

なお、前記認定のとおり同月一二日午前一〇時ころ誠の置かれた部屋の暖房装置が停止して室温が低下していた事実はあるが、湯たんぽや寝具により保温されており、しかも現実にその後本件事故までの間少なくとも二日間以上にわたり誠に異常が生じたことは認められないのであり、従ってこのことから既に本件事故との関連性は乏しいものといわねばならない。

また本件事故当日の午後六時ころ、誠が、授乳の際ミルクを少量飲み残したり、声を出したりしていたことは前記認定のとおりであるが、これらのことが本件事故の徴候であったとも本件証拠上認め難いし、少なくともミルクを少量飲み残したり声を出す位で、異常な事態として受止めるべきものとは肯認し難いから右時点で何らかの治療、看護を要したものとは認められない。

よって原告の右主張は採用できない。

四  被告の責任について

1  債務不履行について

原告はまず、原・被告間において原告の入院に際し、被告は産婦である原告及び出生した新生児に対し適切な看護、治療を施し、もって母子ともに健全な状態で退院させることを目的とする準委任契約が締結された旨主張するが、社会通念に照らし、一般に出産のため入院する妊婦と医師との間で締結される診療契約は、医師に対し、入院後分娩を経て母子ともに健康が安定し家庭に戻ることが可能になるまでの間、必要に応じて適切な治療、看護等の措置を施すという医療行為の遂行自体を内容とする債務を負担させる準委任契約であると解するのが相当であり、特約のない限りは母子ともに健全な状態で家庭に戻すという成果につき責任を負うことはないものと解される。けだし医学、医療技術の現状において必ず母子ともに健全な状態で出産させ、家庭に戻らしめる責任を負うことは不可能であるから、通常そのような成果までも約することはないものと考えられる。

本件においても、被告が原告に対し母子ともに健全な状態で退院させることを特約したとの立証はないから、原・被告間で締結された診療契約(該契約の締結は弁論の全趣旨により認める)により被告が負担する債務の内容は医療行為の遂行自体であると解される。

そうだとすると、本件で誠の死亡という結果が発生したとしても、当然に被告が右診療契約上の債務につき不完全履行の責任を負うべきものとは認め難い。

なおまた原告は、本件事故が健康であった誠が突然死するという態様のものであることと、医療行為の高度の専門性、密室性等に鑑みて、被告の医療行為に不完全な点があり本件事故がこれに起因するものと推定して、被告に帰責事由の不存在の立証責任を課するのが公平である旨主張するかの如くでもあるが、誠の死因が乳幼児突然死症候群であることは前記認定のとおりであるし、仮りにその旨断定し得るに至らないとしても、少なくとも乳幼児に突然死をもたらす疾患として原因不明の乳幼児突然死症候群の存在を肯認でき、本件事故がこれに該当する可能性が存する以上、原告の主張する如き推定を働かせることは困難であり、医療行為の専門性、密室性等原告主張の事情を考慮しても右判断を左右するに至らない。

よって原告の債務不履行の主張はその余の点につき判断するまでもなく採用できない。

2  不法行為について

(一)  原告の請求原因4(二)の(1)、(2)の各主張は、誠の死亡が気道に異物が詰まったり呼吸器が寝具により塞がれた等の外的要因によることを前提として、被告ないしその妻の誠に対する看護に過失があったというのであるが、右前提事実を肯認し難いことは前記説示のとおりであるから原告の右各主張はいずれも採用できない。

(二)  さらに原告の請求原因4(二)の(3)の主張につき検討すると、まず原告は、被告において新生児である誠の状態を常時監視する体制をとっておるべきであったと主張するが、新生児に対する常時の監視体制が、通常必要なものとして要請されていることは、これを肯認するに足る証拠はない。

また原告は、本件で誠の異常を早期に発見すれば救命が可能であったと主張するが、誠の死因は前記認定のとおり原因も発生機序も未解明で防止法も明らかでないところの乳幼児突然死症候群であり、本件で早期に誠の異常を発見したとしても、救命の手段が存したかは疑問であるといわねばならず、少なくとも救命が可能であったことを肯認できる証拠はない。

よって原告の右主張はいずれにしても採用できない。

(三)  なお付言すると、《証拠省略》によれば、被告は本件事故後の同月一五日に誠の実父誠治との間で示談を成立させたが、その際作成した示談書には「私共にて誠を不手際から死亡せしめた」旨の記載があり、また同年三月三一日被告が誠治にその自宅で示談金の残金を完済した際、「ある程度の過失は認める」「手落ちは認める」旨述べたことが認められる。

右認定事実によれば、被告は誠治に対し本件事故につき抽象的に過失の存在を肯定したかの如くであるが、しかしながらそのことが原告との間で何らかの法的効果を生ずるものでないことはいうまでもないし、また過失行為を具体的に特定して自認したものでもないから事実上もさして意味があるものとは認められない。

五  結論

以上によればその余の点につき判断するまでもなく原告の請求は理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 田中澄夫)

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